「シネマフランセーゼ=娘。コン」説

ミラッキ(id:mirakki)氏の言葉を受けて改めて今の自分と「好きな物」との付き合い方を考えさせられた。

たとえば、好きなタレントがいるとして、

 どれっくらい好きかとか、

 「他の人よりも俺はものすごく好きなんだぞ!」

 「このタレントはかっこいい・かわいいんだぞ!」

 「だから興奮しちゃってるぞ!」というのをアピールしたいときに、


 「ハァーン」


 みたいなヤツではどれくらい好きなのか伝わらないと思う。

 他の人といっしょだから、表現方法が。


 ・・・あ、そういうの使う人は

 どれくらい好きかってのは別にアピールしたいわけじゃないのか。

 「とりあえずこの人が好き」という感じなのかな。

 「この人が好きな人、私もですよ!」ということか。


 おいらは「どれっくらい好きか」っていうたとえで楽しまないと・・・

 って思っちゃうんだよな。

確かに。
私がハロプロに興味を持ったきっかけも、実を言うと「モーヲタ」という人たちであったりする訳で。
そういった人たちはモーニング娘。の送ってくる物を自分だけで楽しむのではなくポジティブな活動として(あるいはネガティブな自分をポジティブに曝け出す)受け取ると共に様々な方向に送り返していた。
そのワンクッション置いたエネルギーとでもいうか、そういったものが齢18だったか19だったかのひねくれ者の少年ピノサク君の心を捉えたのは事実だ。

話は変わって、1950年代が終わろうとする頃のフランスでは新たな波が生まれつつあった。
映画が大好きな青年たちが評論活動から映画製作に乗り出した。勿論スタジオで製作技術を学んでいた訳ではない。
それらの映画は評論活動で培われた分析力が遺憾なく発揮され「これまでなかった映画」を創ってしまったのだ。
(「これまでの映画」を知っていたから「これまで無かった映画」が創れたということ)
これが、本でしか知らないヌーベルバーグと言う大きな「祭」(2ちゃんねる風に言えばね)の私流の解釈だ。

21世紀が始まろうという頃から、アイドルヌーベルバーグが実際私の目の前で展開していたのだ。
モーヲタたちは自らの趣味趣向をテキストで表現し、「爆音娘。」「ハロプロ楽曲大賞」「タンポポ・サイリュウム」「メロンのダイブ」・・・といった積極的な自己表現を展開していた。その姿は私にとってゴダールトリュフォーのように映った。ちょっと大げさだけど。
そういった活動を駆り立てるだけのエネルギーをハロプロが持っているんだと言う事に感動したし、それをしっかり受け取るだけでなく放ち返せる人たちがいる事にも感動した。

送り手のエネルギーが弱ければ受け手も強いエネルギーを放つ事は出来ない。今、そのバランスが崩れかけている気がする。
いまのハロプロはかつて程のエネルギーを放っていないのは認めざるを得ない事実だ。
しかし、だからといって無理に弱いエネルギーを叫びや珍妙な踊りで増幅させる必要があるのだろうか?
(私自身無理して楽しんでる事があるかもしれないけど)
私たち受け手に出来る事は「言葉にならないような感動」をなんとか言葉や行動で表現する事なのではないだろうか。
(そんな思いを込めて「山崎ハロプロズ」を作って公開してるんですが・・・)
それが出来る人たちはとても幸せな人たちだと思う。
たとえ周りから「オタク」と呼ばれようとも。